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 武田氏は当寺の武士が多くそうであったように、代々禅宗に帰依していましたが、信虎も同様であり、とくに天桂和尚に深く帰依していました。

 こうした信虎の重臣に遠藤掃部介という者があり、深く法華経を信じていました。

 そして、法華経の中に「もし人が信じないでこの経をそしるようなことがあれば、世間の一切の仏種がたたれてしまう」とあり、また涅槃経に「もし善い比丘であっても、法をやぶる者をみてそのままにしておけば、この人は仏法の中の怨である」とあり、掃部介は仏法の中の「怨の罪」にあたることを恐れ、しばしば信虎に「禅」を捨てて「法華」に帰依すれば武運長久・国土繁栄はたちどころに至るという『立正安国論』の教えを説いたのでした。

​ しかし信虎は、改宗か、さもなければ破門であると言い渡し、ここにおいて掃部介は「法華を捨てるのは、地獄の業なるべし」あるいは「いたずらにくちる身を、法華経の故にすてるは、石に黄金をかえるにあらずや」という日蓮聖人の御遺文を思い、大永元(1521)年自分の知行地である八代郡八之尻に帰って自害をしてしまったのでした。

信虎公草創の縁由2

信虎と遠藤掃部介(かもんのすけ)
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