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信立寺の開基、武田信虎は、明応3(1494)年1月6日、甲斐の守護 武田信縄の長子として石和の館に生まれ、はじめは信直といい、のちに信虎と称しました。
激しい戦乱の世、下剋上の風潮のさなかに、わずか14歳で甲斐国守護の家督を継いだ信虎には、厳しい苦難の道が待っていました。
武田氏は、平安時代の中頃、甲斐源氏の棟梁 源信義が巨摩郡武田荘に住して武田氏を名乗り、その子信光の時、鎌倉幕府の草創の功臣として、本領の甲斐と共に安芸国の守護職を兼ね、甲斐源氏の主流となりました。
南北朝から室町時代にもこの勢力は維持されましたが、末期には、甲斐国内の情勢不安、駿河の今川氏・小田原の北条氏の侵攻により、甲斐の守護、武田氏の地位も危うくなっていきました。
信虎が家督を継いだのは、こうした時期でありました。
信虎は、永正5(1507)年に叔父 油川信恵 父子を倒したのを始め、20年余り戦いに明け暮れ、天文元(1532)年頃、苦心の末ようやく国内統一を遂げ、守護大名から戦国大名へと成長していきました。
そして、武田氏代々の居館であった石和の地を離れ、永正16(1519)年つつじが崎の館を修築し、甲府が開かれたのでした。
信虎公草創の縁由
戦国大名武田信虎
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