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このような歴史を経て、当山は、武田家の祈願所となりました。
信虎は、天文元(1533)年頃に甲斐国内を平定、同4年信濃諏訪氏と和睦して佐久郡の諸城を攻略、同年5月小県郡の滋野一族を討って帰国後、嫡男晴信に追われ、駿河 今川義元の所へ隠退させられてしまいました。
この事件について、信虎の二子、長男 晴信は勇にして暴、次男 信繁は婉にして文なるにより、信虎はひそかに晴信を廃して信繁を立てようとした為と言われていますが、現在は、信虎の領国経営の失敗を主要原因とし、信虎と晴信の不和のため、晴信によって実施され、今川義元が信虎の受入れを承諾することにより成功した無血クーデターであるとみられています。
その後、入道した晴信は信玄と名乗り、その一日、かつて父 信虎が武田家繁栄のため、当山の境内に植えたという紅梅を見て、「この枝葉一本、一枚でも折ってはならない」という制札を立てました。現在も紅梅の碑があり、今もその跡を伝えています。
信玄もまた、父同様に当山を祈願所として保護していました。
信立寺第8世 日讃上人の時、身延山第15世 日叙上人は、祈祷曼荼羅を下し、日讃らに武田家の武運長久を祈願させました。この時、身延山においても一山の僧侶が法華経、一万部を読誦して武運長久の祈誓をこらしました。そうして開山 日伝上人授与の法華経の功力も合わせ、信玄は元亀3(1572)年4月、川中島の戦いに大勝をはくしたのでした。当寺の事柄は信玄より、身延山へ宛てた感謝状にも記されている事から、身延山も武田家の祈祷所と成っていた事がわかります。
信玄公と当山
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