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家康は天正13(1585)年、身延山久遠寺の宛名をもって信立寺へ朱印状を下附しました。
その後、天正16年にもほぼ同一内容の朱印状を出しています。
天正19(1591)年、天下平定をなした豊臣秀吉は加藤光泰を甲斐の領主としました。
加藤光泰、城代 光政も同様の文書を信立寺へ発行しています。
徳川家康が朱印状を身延山と一紙で発行して以来、信立寺は久遠寺と一体とみられ、徳川家代々の朱印状も第14代 家茂に至るまで同じ様に発行されてきました。
その度に、身延山歴代住職よりその写しを伝達されてきたのですが、その時の本山への出仕・往復ならびに儀式は非常に丁重なものであったようです。
久遠寺と信立寺
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